夜更けの夜遊びが幸子を悪女にしたのかそれとも幸子が夜を悪いものに変えたのか。
それは例えると卵と鶏のような関係なのかもしれない。
ともかく正直言えば涼だけではなく、たくさんの巷の出会い系やツーショットで幸子に知り合ったものたちが幸子によって己を忘れ、長々とただ悪戯に時間を弄ばれていったのは確かなことであったから。
都内ではそれを『悪い夜の仕業』あるいは『夜の悪女』と囁くものまで出てきだしたのだった。
また会ってもいいと言われたものは自分だけが幸子に選ばれたと思って皆、有頂天だったが、実はたくさんの知り合った男がすべてある条件さえ満たされていれば、また幸子と会う事が可能だったのだ。
その条件とは、幸子のお酒に最後まで付き合えること、そして、焼肉を奢れる事、図書券をプレゼントできることだった。
あともうひとつ付け加えるならば、帰りのタクシー代を出せることだった。
最初はそれでよかったのだ。
何もかもがすべて順調だった。
いくら幸子と出会うもののすべてのもたちが条件さえ満たせばまた会う事ができたとしても、若いうちはまだ出世しているものも少なくそうそう条件をクリアできるものもいなかった。
また、条件をクリアできたとしても幸子のようなタイプを好きな者達ばかりな訳でもなく、相手の方から出会ってもすぐ一瞥で幸子の前から立ち去る者だって多かったのだ。
なので、もし何かの事情で幸子が躓きだしたり、評判が下がっていったとしたら、幸子が遊びだすようになってから、何年もたった後のことであろう。
何年も立てば次第に、幸子のことを知っている連中が同じ会社や組織内にどんどん鼠講のように増えていっても何も不思議なことではなかったから。
それはまるで切っても切ってもまたすぐ生えてくる不気味な妖怪毒キノコのような現象に似ていた。
そしてその中の一人がある日、口火を切るように、幸子のことを語ればすぐ傍で聞いていた同じ会社や組織の同じ体験を持つものが耳を欹てて反応するのは当然のことだろう。
“俺もその女を知っているぜ”“私もお茶したことあるわ”
次第にその噂の輪が広まれば次第に有名人になるのはしごく当たり前のことであった。
そしてその有名人がいつまでも大きな顔でのさばっていては、既に幸子のことを諦め新しい恋人や彼女、妻を持つもの達からしたら公害と同じようなものだったから。
そんな些細なことで新しい自分の世界に皹が入っていくのを非常に彼らは恐れたのだ。
誰でも守るものを持つようになればそれは当然のことだろう。
また過去の女が同じ組織にいる誰かと何かがあったなんて分かれば男としては非常にやるせないものがあったのだ。
また女性からも、バイセクシャルの毛も少々あったといわれる幸子との思い出を引きずっているものたちも意外にも多いのではないだろうか?
「私、村上春樹の小説が好きなんです」
幸子がそう目をキラキラと輝かせていえば、涼もその熱っぽい視線に感銘して心が大きく揺れ、彼女の為だったら、なんでも惜しみなく協力をしたいとまで思うようになったのだった。
アルコールのマジックだろうか、確かに最後の支払いを気にしていたので涼のほうはちびちびと飲む程度だったがまたスッカリとほろ酔い気分になっていた。
「小説家なれるといいっすねぇ」
涼がそういうと、幸子も嬉しそうに微笑んでいた。
「俺、何か本をプレゼントしたいんすけど、何がいいすっか?」
そう涼が問いかけると、
「私、図書券がいいんです。本じゃなくて、図書券を下さい!」
幸子は確かにそういったのだ。
おそらく図書券だったら自分の好きな本が選べるからだろうとすぐ想像がついたので、涼は
「OK!いいすっよ、俺、今度、会うとき図書券持ってきますよ」
と、大変いいムードに盛り上がっていた。
この時に誰も二人のことを邪魔するものなどいなかった。
だが、しかし、もし幸子が主婦だとわかっていたらこのような展開だったであろうか?
涼はよもや幸子が主婦などとこの時点でもまったく気づいていなかったのだ。
涼は最初にいたバーで既に幸子に彼氏がいるかどうかは聞いていたのだ。
幸子の答えは「NO」だった。
しかし、“旦那はいますか?”と聞いたわけではなかったので、それが嘘をついたとになるとは彼女は思っていなかったのか?
そうこうしているうちに夜は白々と明けていったのだ。
焼肉屋を出てから、ふらふらと千鳥足で、外を歩けば、幸子はそんなだらしのない男といつまでも連れ立って一緒にいるのがみっともないと思ったのか、
「私、これからちょっとラーメンを食べに行くんでここで失礼します」
と慌てて涼にいったのだった。
涼は避けられたショックより、あれだけ飲み食いをしておきながら、この期に及んで、まだ何かがはいる幸子の怪物並みの胃腸に驚きを感じずにはいられなかった。
「そうっすかぁ。いいすねぇ・・・」
「ああ、あの・・・」
涼が少し大きな声で声をかけると、その場から立ち去ろうとしていた幸子がその時、涼のほうに振り返った。
「また、会ってくださいね、俺、連絡をしますから」
「ええ、いいですよ」
微笑んで幸子はそう答えるとスタスタとその場を立ち去っていった。
濃い闇が少し白々となってきだした時刻のことだった。
次の場所はさっきのバーとは違いもっと照明が明るかった。
ハッキリまざまざと相手の顔がみることができた。
テーブルに座ると、少々煙の匂いがしたが、居心地はいたってよかった。
何よりも相手の顔がハッキリとみえ、テーブルとテーブルの間の感覚が広く、さっきいたバーより周囲を気にせず、二人だけの世界にはいれるような感じがしたからである。
音楽はなかったが、少し大きな声で話しても、すぐその内容がもれるはずはないと思ったのだ。
清潔感のある小ざっぱりした雰囲気も非常に好感が持てた。
その店は確かにカードが使えるようになっていた。
店に入る前に真っ先にそれを確認したので間違いない。
後ろのほうから、店のウェイターがオーダーをとりにやってくるのがみえた。
「塩タン下さい!あと、ユッケも、それからおビールジョッキでお願いします!」
非常になれた口調で幸子が注文をした。
「俺は水だけでいいっす、今ちょっと考え中なんで・・・」
涼の顔は少し青ざめていた。
予定外の出費に先が思いやられていたのだ。
このまま自分は何も口にするのを止めようか思っていたくらいだった。
そんな涼のことなどお構いなしで、ひたすら幸子はビールを呷り、焼肉類を頬張っていた。
そう、幸子は酒も好きだが焼肉も大好きだった。
特に塩タンには目がなかった。
涼はそんな幸子をじっくりと見据えながらこう思っていた。
このまま別れたら、これだけ使った金がもったいねぇなぁ。
しばらくつき合わせてもらわねぇとなぁ。
そして涼は、幸子にこういったのだ。
「また、会ってもらえますか?俺と」
幸子はすかさずこう答えた。
「ええ、もちろん!また焼肉食べに行きましょうね!」
その言葉の内容だと嬉しいといってどうかはわからなかったが、とにかく拒否はされなかっただけでもよかったと涼は思ったのだった。
明るい照明の中でクッキリと浮かび上がった幸子のその顔はハニワが面長に伸びたような人相であった。さらに付け加えるならば、目は切れ長であった。
特に際立った特徴のない顔であったが、化粧をすればそれなりに映えたのであった。
どうであろうと、涼はこれまでに支払った元だけは自分の面子にかけても取り戻したかったので、顔が好みだとかそうじゃないとかはこの際どうでもよかったのだ。
幸子はそんなこと気にも止めない感じで血の気が引いたような面持ちの涼の目の前で何倍もビールのジョッキをお代わりしていた。
それから、その焼肉店で幸子は今宵のパートナー涼に自分の将来の夢を語ったりしたのだ。
幸子の将来の夢は小説家になることだった。
行く場所は決まっていたが、ふとあることに幸子のパートナーは気づいたのだった。
それはとてもこの場面では重要なことだった。
先にもお話したが幸子はこのバーで膨大の量の酒を飲んだのだ。
なので、この今宵、幸子に何かの縁でパートナーとして選ばれたこの人物は当然ながら最後の御代は自分が払うと分かっていたので、幸子が移動をしたいと合図する前から常に自分の財布の中身は気にしていたのであった。
つまり、簡単に言えばもう財布の中身はここの代金を払うとたぶん空っぽに近い状態だった。
家に帰るには電車の定期があるからなんとか帰れるが、これ以上場所を変えてお付き合いするのには非常に無理がある状態に陥っていたのだった。
「あのぉう、幸子さん、あの、俺・・・・すみません。もう少しここでこのまま飲みませんか?」
幸子は唖然とした表情だった。
「場所を変えないと駄目っすか?」
パートナーはおそらく男であった。(?)
なので、男たるものいかなる理由があろうとも連れの女性の前で懐が寂しく、財布がピンチだということを知らせるのが恥だと思えたのだ。
それにここのバーならつけができることも期待できた。(それは確かなことではなかったがこの時涼はつけができるという方に賭けていた)
なので、ともかくこの場はここに留まってもらって時間を稼ごうと思ったのだ。
―朝の8時か9時になれば確か銀行が開くよな・・・・―そんな考えが頭を過ぎったのだった。
「涼さん、私、いつまでも同じ場所なんて嫌だわ」
幸子はそういい終わるや否や、「それじゃ、私・・・・」
といいかけた時だった。
「わかりました。いい方法があります、実は俺、銀行から余分に降ろしてくるの忘れて、手持ちがもうないんすけど、カードがあります、カード使えるとこにしましょうよ、お願いっすよ」
幸子の会話を正しいとするなら、おそらくこのパートナーの男は涼というのだろう。
その涼がプライドをかなぐり捨てても冷たく帰ろうとする幸子のことを引き止めたいと思った瞬間の一コマであった。
「私、別に帰るなんていってません、おかしなこと言わないでください」
「ああ、よかった」
結局、カードが使える場所に移動することが暗黙の了解で決まったのであった。
バーを出る時点で涼の財布に入っていた現金の5万円は軽く消えていたのであった。
確か興に乗ってほろ酔い気分になった涼が幸子の前で格好をつけたくなりかなり高い酒のボトルを入れた支払いも含まれていた。
まだ、ハッキリ今後も交際をするとは幸子は一言もいっていないが涼の方はすっかりその気になっていたのだ。
今後もこのバーにまた二人で来たいと思うためにボトルをキープしたのだった。
そして二人はカードが使用できるようになっている次の場所へ向かった。
それはある日の夜の闇が迫る頃の時刻の都会の片隅にある、いつも数名の常連客がアジトとしてタムロしている小奇麗でモダンな小さなバーでのことであった。
幸子が酒を呷っていた。
浴びるように呷っていた。
厖大な量の酒をゴクゴクとまるでジュースやレモン水を飲むように飲み干していた。
その行為を誰も止めることはできなかった。
一度、飲みが始まると笊だった。
その瞬間、誰が彼女が主婦だと気づいただろうか?
それとも私が知っていた頃の幸子はまだ主婦ではなかったのか?
今となっては分からない。
その行為が終わるや否や、幸子はウィスキーのロックをバーテンに頼んでいた。
「いい加減、苦しくないっすか?そんなに飲んで?」
と、その時傍にいたパートナーが幸子に心配そうにそういった。
幸子とそのパートナーがいるバーは、薄暗く、青白いライトが光っていた。
なので、幸子の顔も青白く光ってみえたのでそのパートナーには幸子がグワイが悪いのではないかと心配になってしまったのだ。
「何かあったんすか?そんなになるまで飲むのは?」
また続けて傍にいたパートナーが幸子に問いかけた。
「あなたも人に何かを尋ねるときの話し方とか礼儀をお母さんから教わったほうがいいんじゃないかしら」
と背筋がゾッとするような冷ややかな薄笑いを浮かべながら幸子がパートナーに返答を返したのはそのすぐあとだった。
いつも幸子はそうだった。
自分に都合が悪い話や興味のない話、あるいは意に染まない話だとゾッとするような冷たい笑みを浮かべ相手を見下すかのような口ぶりで話をそらしてしまうのだった。
自分が認めるレベルに達しない質問だと思うと、相手の質問に対してまともに返答をすることはまずなかった。
そんな幸子の態度に冷たさを感じたり、面白みがない奴だと思い、途中で、その場から帰ってしまう者達も多かったことと思う。
バーに流れていた洒落たリズムのジャズも今はまったく耳に入らなかった。
ライトがピカピカと点滅して幸子の顔も点滅に合わせて白くなったり暗くなったりしていくのが目にチラついていた。
幸子が顎をゆっくりと引いて、顔をパートナーに向き直ってニンマリしだした。
「次はどこっすか?」
傍にいた今宵のお相手のパートナーはそれが場所を移動したいという合図だとすぐ気づいたのだった。
今回のパートナーはかなり粘り強く、幸子の白けた返答や態度にも己の理性で怒りを抑えどこまでもお付き合いをしようというご立派な態度だった。
「もちろんあそこです」
幸子がそういえばいく場所はもう決まっていたのだ。