その戸惑いは図星であった。幸子はAが迷う以上に、はっきりと嫌悪感もあるほどにAと縁を切りたがっていたのであった。有名スターとなった今となっては幸子にとってAの存在はただただ邪魔でしかなかったのであった。Aのほうはもう幸子からプロポーズを受けている気分から抜けきれないのであったので、まさか幸子が自分と縁を切ろうとしているなどと予想もしていなかったのであった。なので、Aのほうは今すぐ一緒になろうと言われても困るなという、なんともおめでたい自意識過剰に基づいた見解で心が揺れているだけであったのであった。その大きな見当はずれは、むしろ、今すぐにも不幸な険悪なムードに突入するのだけは少なくとも防いでいるはずであった。
長い沈黙に耐え切れずAは自分のほうから「忙しいならいいよ。また電話して」と即座に告げると受話器を電話機の上に置いたのであった。Aはこの時点でも幸子の本心にはまったく気づくこともなく陽気に鼻歌を歌いながら、これからしばらくお世話になるであろう、アパートの部屋の掃除をはじめたのであった。なんともおめでたいAの行動であった。
部屋に自宅から持ってきた今ではアイドルの幸子のポスターを天井に貼り付けると、Aは満足したかのように部屋の中央に大の字に寝転んだ。その部屋は和室の6畳一間で風呂なしであったが小奇麗で、手入れが行き届いているようにみえた。流しもピカピカに磨かれていた。トイレは共同で廊下の先にあった。他の部屋は全部で7つくらいありAの部屋をいれてちょうど8つであったと思う。それゆえ安上がりだった割には隣人が多いという点で、安心感があった。今のAの経済力ではこの状態がせいぜいであった。「これから俺の新しい人生がはじまる」Aははっきりとそう思い。顔は笑顔で満面であったのであった。やがて訪れる恐ろしい事態にその時は少しも気づくこともなくAはすっかり満足しきった様子で、アパートでゴロゴロと寝そべっていたのであった。寝そべりながら、東京駅の販売店で買ったお菓子のポテトチップを口にほおばっていた。いづれにしてもとても楽しげなAであった。その姿は間違いなくその時点では幸せそのものであった。あくまでその時点では。
そして、それとはまったく逆に、幸子のほうはまるで悪夢に遭遇したたかのように気分が落ち込み荒れていたのであった。―このやっかいものをなんとしてでもこれ以上自分に深入りしようとしてくるのを阻止しなければ、―その思いで幸子の心はいっぱいに膨らんでいたのであった。ただAを簡単に突き放すことも不可能に思われたなんといっても事務所が某有名プロダクションビルであり、このビルが移動するということはどうにも考えられなかったし、たとえ、幸子が事務所を移籍したとしても、芸能界の事務所はどこもみな有名なので今となってはここまで名が知れた幸子にとってどこの事務所に移籍して移動しようがAがその気になればどこまでも追跡可能であったのであるから。幸子は一気に憂鬱になり顔色はみるみる蒼ざめてきたのであった。
なんとかしなくては、―時刻はちょうどある年の3月上旬の夕方の7時を指していた。―幸子はあせった。はっきりと、額から汗がでて、伝い落ちてくるのを頬に感じたのであった。血の気が引いたように蒼ざめた表情で、幸子が自分のマンションの部屋の電源ボタンを押した時に、ある考えが幸子の脳裏を過ったのであった。そしてその考えは必ず実行しなければならないと幸子は固く心に誓ったのであった。
Aは東京に着いた次の日、すぐに仲間に無事ついたことを電話で知らせた。その時に仲間の何人かから、もうじき自分たちも東京に行けたら行きたいと言われ、Aは咄嗟に「住まいがないなら俺のとこに来てもいいよ。」と軽く言ってしまったのであった。しかし、Aは決してみみっちくてケチな男ではなかったので、その言葉を失言とは思わなかったのであった。一人でいるのも何かと寂しく、いつかかってくるかわからない幸子からの電話を待つのも辛かったのであったのだから、・・・・・。
Aは仲間がいつか来るのを楽しみにしながら、東京でアルバイトを探すことにした。そしてそんなある日また幸子から電話がかかってきたのであった。「せっかく東京に来たのだから会いましょうよ。」「もちろん、そのつもりで出てきたよ。」「どうせなら明日はどう?」「だけど人目につくとやっぱり困るので深夜じゃないと駄目だけどいいかしら?」「構わないよ」そんな会話が続いたのであった。
そして、その明日の深夜はあっという間にやってきたのであった。Aはまだ東京にきたばかりで母に頼んでいた足りない荷物が届くのがまだだったために東京に来た当日の姿、そのままに、着の身着のままの状態であった。それでも心は楽しげに踊っていたのであった。そして、深夜の約束の時刻になると、幸子との待ち合わせ場所に直行したのであった。