「私、村上春樹の小説が好きなんです」
幸子がそう目をキラキラと輝かせていえば、涼もその熱っぽい視線に感銘して心が大きく揺れ、彼女の為だったら、なんでも惜しみなく協力をしたいとまで思うようになったのだった。
アルコールのマジックだろうか、確かに最後の支払いを気にしていたので涼のほうはちびちびと飲む程度だったがまたスッカリとほろ酔い気分になっていた。
「小説家なれるといいっすねぇ」
涼がそういうと、幸子も嬉しそうに微笑んでいた。
「俺、何か本をプレゼントしたいんすけど、何がいいすっか?」
そう涼が問いかけると、
「私、図書券がいいんです。本じゃなくて、図書券を下さい!」
幸子は確かにそういったのだ。
おそらく図書券だったら自分の好きな本が選べるからだろうとすぐ想像がついたので、涼は
「OK!いいすっよ、俺、今度、会うとき図書券持ってきますよ」
と、大変いいムードに盛り上がっていた。
この時に誰も二人のことを邪魔するものなどいなかった。
だが、しかし、もし幸子が主婦だとわかっていたらこのような展開だったであろうか?
涼はよもや幸子が主婦などとこの時点でもまったく気づいていなかったのだ。
涼は最初にいたバーで既に幸子に彼氏がいるかどうかは聞いていたのだ。
幸子の答えは「NO」だった。
しかし、“旦那はいますか?”と聞いたわけではなかったので、それが嘘をついたとになるとは彼女は思っていなかったのか?
そうこうしているうちに夜は白々と明けていったのだ。
焼肉屋を出てから、ふらふらと千鳥足で、外を歩けば、幸子はそんなだらしのない男といつまでも連れ立って一緒にいるのがみっともないと思ったのか、
「私、これからちょっとラーメンを食べに行くんでここで失礼します」
と慌てて涼にいったのだった。
涼は避けられたショックより、あれだけ飲み食いをしておきながら、この期に及んで、まだ何かがはいる幸子の怪物並みの胃腸に驚きを感じずにはいられなかった。
「そうっすかぁ。いいすねぇ・・・」
「ああ、あの・・・」
涼が少し大きな声で声をかけると、その場から立ち去ろうとしていた幸子がその時、涼のほうに振り返った。
「また、会ってくださいね、俺、連絡をしますから」
「ええ、いいですよ」
微笑んで幸子はそう答えるとスタスタとその場を立ち去っていった。
濃い闇が少し白々となってきだした時刻のことだった。